昭和40年3月5日 朝の御理解



御神訓一、神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。

御神訓に、「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。「神の道」「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。」これは、教祖の神様ご自身が、ご信心を、真の信心を体得されて、これは、あの教祖の神様のお心の状態でもあろうと思うんですね。もちろん、天地の親神様のお心でも、もちろんありましょう。「どうぞ、信心しておかげを受けてくれよ。」と。いくら、「どうぞ、信心しておかげを受けてくれよ。」と、神様が要求にも似たようなお働きを下さるのだけれども、氏子がそれをそれと気が付かない。
 「哀れなことじゃ。」と、「いわゆる、かわいいものじゃ。」と。「時節を待っておかげを受けたらよかろう。」と、こうおっしゃる、そのお言葉と通じると。ね。教祖の神様ご自身が、真の信心を身に付けられて、そして自分で頂かれるところの信心の喜び。心には頂かれておられるところの心の安らぎ、安心と。こういうような状態になられたら、みんながどんなに有難いことだろうと。それを感じられるところから、私は信心のない者の、「かわいそうなものじゃ。」と。いわゆる、この「ものの哀れ」という、あの、あれとはちょっと違うんですね、ここでは。感傷的なものではない。いわゆる、この「かわいいものじゃ」ということに、私は通じると思う。
 「真の道も知らぬ人の哀れさ」と。どうでしょうか皆さん。段々信心が分かってみられてから、「に、信心のない者は気の毒なことじゃ」と、というぐらいに感じられるぐらいになったでしょうか。私はいつも言う。本当に、こういう信心をみんながして下さるならですね、私は、私の持っている一切の何をあげてもいいと思うね。本気で分かって下さろうとする人があるなら。私は、もし宣伝で、それが効果があるものなら、それこそ三味線、太鼓でにぎあい立ててです、金光様のご信心を宣伝して回ってもいいと思うね。私は、その位に感じる。私ですらそれだから、教祖の神様なんかの思いはもっと深い、大きなものであったろうと、こう思うんですね。
 私自身が頂いておる信心を、私ぐらいに皆さんも頂かれたらです、どんなに楽なことになるだろう。どんなに家庭が円満に、楽しゅうなるだろう。世界がどんなに美しゅう、明るうなるだろう。そんなふうに私は感じるです。ところがどうでしょう。信心をしておってもです、信心をしておることが、かえって億劫になるような人すらある。「信心しておるばっかりに、もう、グウグウちこらえとかんならん。」というようなことを言う人がおるです。私が信心しておらんなら、もう言うて聞かせるのじゃけれど。ね、信心しとるためにです。それは、私共、若い時代に、それがあった。ね。非常に神様が邪魔になった時代があった。どこに行くでも、御神米ちゃっとこうお供していく。
 もう、お供しておる神様が邪魔になるごたる。あぁ自分でいいかげんな理屈をつけてから。神、我と共にあるのだから、もう御神米は置いとこうちゅうような時代があった。ね。いわゆる、信心がかえって邪魔になるというようなことはないでしょうか。いや信心があるよりかえって窮屈を感じておられるようなことはないだろうか。あぁ信心しておらんなら、今日ごたる寒か日に行かんでよかとか。信心がないなら、こげん朝起きせんで、早起きせんでもいいのにと。その位では、私は、このみ教えは分からんと。信心のない人の、ほんとに哀れなことだと、気の毒なことだと。そこからです、本当に神心というものが生まれてくる。信心されたらどうでしょう。こういう有り難い心にも、幸せにもなっていけるのですよと、こう人にも伝えることができるようになるのです。
 そこで、私は思うのですけれども、(咳をされる)そのためにまずです、私共がですね、我無力であるという自覚に立つことだと。ん、それも体験の上から、なるほど、自分には力がないのだということを悟ることだと思う。教祖そこんところを、「障子一重がままならぬ人の身」と、こうおっしゃる。「障子一重がままならぬ人の身ぞ。」と。そうですよね。障子一重向こうのことが分からんのが私達。それは、まぁ理屈を言やー分かるんだけど。んー、はぁ、例えば、手をちょっと、小指なら小指をちょっと怪我した。もう怪我しただけでも、この小指が自由を失ってしまう、ねぇ。なるほど神様のおかげを頂かなければ、この手一つを動かすことすら、足を運ぶことすらできんことは分かるんだけれど、そのそういう意味合いで分かっただけではいけん。心から分からなきゃ。
 心から分かるから、言うておることも、聞こえておることも、手が動いておることもありがたいのである。そこで、信心とは私はそれを本当に心の底から分からせるために教えがあると。お互いが、やはり、まぁしゅうしょな方達があります。
 えー、今日はここに上滝さんが参ってきております。今朝の朝の御祈念にも参って来た。ちょっとこの頃、体が、ま、大学に行っていますけれども、体がちょっと不調なんです。だから、入院してでも、と言われる位だけれども、ま、神様におすがりしておかげを頂きたいというような気持ち。けれども、神様が分からない。おかげも分からない、もちろん、だから。ね、けれども、やはり、分からんなりにでも、こうやってその、今朝も来て、また今夜も出てきておると。そこに、私は、与えられるものがあると思うんですね。いわゆるその、道を求めてやってくるわけ。だから、なら道を私が順々と説いてもです、後まで、よし合点ができても、それは本当なものではないと。
 「道という言葉に迷うことなかれ。道は教えを踏む他はなし」とおっしゃる。最近では、道を間違えてはおらんかとか、道が違うておるぞなんていうような言葉が流行りますけれどもですね。道というのはどこにあるかと。天地につながる道以外にないのである。教祖の生神金光大神を通してです、現れておられるところの天地の親神様。その親神様に直通する、直通するところのです、通うところの道というのはです、教祖の残されたみ教えを行ずる以外にはないと。そこにおる人、真の大道(だいどう)という、真の大道(おおみち)というものが分からせてもらえる。道はどこに、道は、道はと言うてもです、それはなかなか、本当な道はなかなか分からない。
 そして、これが道だと、一生その道を解き明かしとる人があるけれども、はたしてその道が本当なものでない証拠に、本当なおかげが受けられていないということ。うん。その道に出らして、真の道に出らしてもらい、真の道が分からせてもらい、出らせてもろうたら、神様との交流が始まらなければ嘘である。無限皎々(きょうきょう)というか、限りない、無尽蔵のおかげも、その道をたどって、おかげを頂けなかったら、その人が言うておる道は、本当なものじゃないということになる。真の道とは、そんなもの。私共はその真の道を求める。ね、本当の道を分からせてもらう。
 それを分からせて頂くのは、ただ理屈で、ね、こうだから、こうだあろうがと聞かせてもろうてもです、頭で合点がいっても、それでは有り難いという信心の一番究極なもの、それは私は、もう有難うならせて頂くけいこ以外にはないと。「真にありがたしと思う心 すぐにみかげのはじめ」もう、真に有難いという心を持って、神様と交流する。そこからみかげの始まりがあるのです。そこからです、いよいよなるほど「障子一重がままなら人の身」であるなぁということも、実感的に感じるようになるのです。それは私は今日、その、まぁ分かりやすくです、具体的に一つ話してみたいとおもう。真の道を分からせて頂くために、そして、初めて、教祖の神様が御神訓にみ教え下さっておるところの「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ」という、そのみ教えに共感が湧いてくる信心。なるほどそうだなぁと。信心のない人を見ると、みんな哀れに見える。気の毒だなぁ。
 なるほど現在は羽振りがいい、調子がいい。商売も繁盛しとる、健康でもある。家庭も、まぁ見たところ円満のようにあるけれどもです、本当に信心なしに、そういうようなものを築いていきよる人達がです、哀れで哀れでたまらん。愛?を子供に孫に残しておかれるのだろうか。本当にばい菌のついた、いうなら食べ物を残しておくようなものだと。分かったら、もう気の毒で気の毒でたまらない。それが分かっていないということが哀れである。そこで教えなければおられんのであり。
 お導きしなければおられんのであり。私がおかげを頂いておることを話しにして、聞いてもらわなければおられんのである。だから問題は、自分自身がやはり、その心を開いておかなければ話にもならんということ。(咳きをされる)だから、道、道と言うても、求道心と、こう言うてもです、道を求める、道を求めると言うてもです、堂々回りやらも、回り道をしてです、そして一生、本当のところに出られないと、いわばおかげと直通しない道を求めても何になる。夫婦には夫婦の道がある。百姓には百姓の道がある。商売人には商売道という道がある。と言うだけ手にとっても?それが商売繁盛のおかげにならんなら、夫婦円満のおかげにならんなら、うん、それは私はどこにか本当の道を間違えとると、こう思う。本当の道というものはです。必ず天地の親神様と私共との間にです、金光大神のお取次によって、流れてくるもの。それは人間がもう幸せにならなければおれない、幸せにせねばおかんというおかげが流れてこなければならんはずだ。必要な時は必要に応じて、金なら金が、物なら物が、ん、一切のものがその道をたどって流れてくるのであるということ。すと無理にで願わんでよか訳でしょうが。どうぞあれを下さい、あれをなんて言わんでも。だから、もーそれを道を通らずくじゃけん。おーーーけ?、それをあんまり無理に願うもんだから、道通らんで、そういうおかげも、このお道の信心じゃ頂けるところにですね、往々にして道を間違える人がたくさんあります。そして自分が思うておることが本当の道だと間違えて、それを人に教えておるような場合もたくさんある。本当の道とは、教えを本気で行じさせてもらう以外には道はないということ。そこから自ずと天地の大道が開けてくる。真の道に立つことができる。
 皆さんは、あの桃太郎さんの物語を知っておられるでしょう。昔々、ある所におじいさんとおばあさんがおったげな。おじいさんは山に芝刈りに参りました。おばあさんは川に洗濯に参りました。ところが、上の方から桃がブッカリブッカリ流れてきた、というお話なんですから、皆さんもよう知っとるですよねぇ。その桃をひらい上げて持って帰った。おじいさんが大変喜んだ。じゃぁひとつ頂いてみろうじゃないかというわけで、包丁で割ったところが、中から生まれたのは、いわゆる大きな赤ん坊であった。名を桃太郎と付けた。立派な息子の子である。成長するにしたがって、力が強くなる。そして、その桃太郎がおじいさん、おばあさんに言うことにはです、鬼征伐に行くことを言い出した。おじいさんとおばあさんは、そんならと言うて吉備団子を用意してやる。途中で、犬やら猿やらキジやらがお供についてきて、いよいよ目指す鬼ヶ島に着いた。そして、見事に征伐をして、鬼を降参さして、たくさんの宝をぶん取って帰って来たというお話なんです。私共が信心の物心が付きだしたら、本気で鬼征伐を思い立たなければだめ。信心の物心がついてきたらです、なるほど、信心とは拝むだけじゃないと、参るだけじゃないと。教祖もそこんところを「信心とは日々の改まりが第一だ」と。本心の玉を磨く信心とは、「本心の玉を磨くものぞや」とおっしゃるように、信心とはこれなんだと。自分の心の中におる、「用心しよ、心の鬼がわが身を( ? )」とおっしゃる。難儀の一切は、わが心の鬼のせいなのだということ。そこで信心させてもらい、教えの鏡を立てさせて頂くと、自分の心の中に、赤鬼、青鬼がいっぱいおるということ。ね、本気で鬼征伐をさせて頂こうという気になるとですね、必ずおじいさんが、おばあさんが、吉備団子を作ってくださるとです。必ず犬やら猿やらキジやらのお供が、いわばそういう加担者が必ず生まれてくるということです。本気で自分の心の中にです、鬼を征伐しようと、本気で改まろうという気になるとです、改まらせて頂く者の都合のよい、犬やら猿やらキジやらがです、様々な自然の中に、働きが始まってくるのです。この辺は、そこんとこの体験した者の中にしか分からんと、私は思うですねぇ。今日もこげな山に登りよる。神様が登れとおっしゃる。登れるはずがないじゃないかと、と言うておる間は登れましぇん。登れとおっしゃるから、本気で登る気にならせていただいたら、ちゃーんと手がかり足がかりがあるのに驚くと。登ってしもうて、ようもようもと、こういう山に登れたもんだと、信心も山登りも同しこととおっしゃる、その山に登ることができる。まず自分の信心の、いわば求道心というか、求める心と。そういう物心と言うか、信心心が心の中に入ったら、まず自分の心の中を改まることが第一である、肝要であるということに気付かせて頂かなければならない。本気で改まるぞということになりゃ、必ず、犬猿キジの、いわば加勢が得られるということ。次に花咲か爺のお話を皆さんもご承知でしょう。ね、良いおじいさんと悪いおじいさんがおったげなというお話です。ある時、隣りの悪いおじいさんが。良いおじいさんの所で、ある日、そこで飼うておった犬が、「ここ掘れワンワン」と言うて、掘れておじいさんに知らせた。掘ってみるとそこから、なら小金やらその宝物が続々と出てきたと。それを見聞きしておった隣りのおじいさんが、それを、犬を借りに来た。それこそその通りに鳴かしたところが、出てきたのが水やら、泥水やら、かわらやらばっかりだったというので、とうとう腹立ててしもうて、その犬を殺してしもうた。あまり何日も経っても犬を返してくれんから、犬を返し、その返しに行ったところが、あの犬は殺してしもうたと。ほんな?かわいそうなころをしたと。それでも、その亡骸だけでも、もろうて帰ろうと、と言うてその犬をもろうて帰った。そしてねんごろに弔って、その上に記念に松の木を植えた、小さい。してその松の木がどんどん太った。だけどじいさんは、その松の木を切ってその臼を作った。そして、ある日その臼を使わせて頂いて、つかせて頂くと、その臼の中から、またも小金がいっぱい出てきたというお話。おじいさんが、隣りのおじいさんがそれをまた聞いて、臼を借りに来た。さぁさぁどうぞと、もってってお使いなさいと、良いおじいさんですから、お前この頃犬を殺してしもうたから、もうお前には貸さんと言わっしゃらじゃった。さぁさぁどうぞお使いください。ところが、またその臼の中から、かわらやらあくとやらばっかししか出てこなかったので、またいよいよカンカンに怒ったおじいさんがねぇ、その臼をとうとう割ってしもうた。そしてその焚き物にしてしもうた。臼をもらいに行くとやっぱりそんなことであったから、仕方がない。ならせめて灰だけでも、と言うて、灰をもろうて帰った。そして、その灰を自分の裏にある木にかけたところが、これが不思議、その枯れたような木にいっぱい花が咲いたということがある。(途中切れ)



   2004 7 6 末永ていこ